この合唱団員にはドクターが2名います。その先生が投稿して下さった
名付けて「モツレク診察室」シリーズです。




第18号(2000年7月25日発行)

濱田栄一さん(テナー・内科医)  「誰がモーツアルトを殺したか」


 久々のモツレク診察室です。いきなり週刊誌的なタイトルで始まりました。

 モーツアルトの死因についてはサリエリが毒殺したとか、いろいろ言われているようですが、殆どは「話は面白いほうがいい」的なところから出ているようで、どれも信憑性に乏しいようです。医学史研究家 JOHN O‘Sheaが1988年に出した論文に詳しく記されていますので、それを要約してみます。
 
 1762年(6才) 高熱と発疹に苦しむ。4週間にも及び、制汗薬の黒色火薬による治療が行われた。
 
 1764年(8才) 同様の症状発現、この時は多発性関節炎も合併

 1765年(9才) 同様の症状発現

 1766年(10才)再び高熱と多発性関節炎。膝が侵され歩けなくなった。

 1767年(11才)天然痘にかかる。一時危険な状態になる。

 1784年(28才)ウイーンでオペラを観ていた時、大量の汗をかいて疝痛と吐き気を訴える。体の不調は一ヶ月続く。当時の医師の診断は「リウマチ熱」。以後、健康は目に見えて衰えていく。
 
 1791年(35才、死の年)この年前半のモーツアルトは血色が悪く衰弱しており、鬱病や妄想による振る舞いがめだち、顔や手はいつもむくんでいたという。しかし音楽的生産性は衰えず、1日4時間しか眠らないこともあった。粗末な食事と大酒をあびた事が知られている。後半になると、めっきり衰えて行く。体中がむくみ、鬱病も悪化した。
 
  8月に見知らぬ男が名を告げずにレクイエムの依頼に来ると、精神状態は最悪となり、死の思いに取り憑かれた。
 
  11月20日、ついに寝たきりとなり、高熱に悩まされた。手足はひどく腫れ、動かすたびに痛んだ。結局15日間苦しんだ後亡くなった。

 死の床で最後に口述して残したのが、あの第7曲ラクリモサの導入部である。当時の死亡診断書は腎不全による心臓の水腫となっている。
 
 さて、モーツアルトの病気は一体何だったのでしょうか。
 6才の時に高熱と発疹(後に何度も繰り返す)、リウマチ性多発性関節炎、腎不全と来たら答えはひとつしかありません。彼の命を奪ったのは溶連菌感染症による糸球体腎炎です。正確にはA群β溶血性連鎖球菌感染症と言いまして、日常の診療でよく遭遇します。この菌に感染すると高熱が出てのどが赤く腫れて痛みます。全身に発疹がでることがあり、この場合には以前は猩紅熱と呼ばれました。この病気の怖いところは、合併症として腎炎やリウマチ熱(心臓弁膜症の原因となる)などを起こしやすいことです。診断は腫れているのどに綿棒をあて、専用の迅速診断試験というのを行えば5分位で容易に付きます。診断が確定したらペニシリンという抗生物質を服用することになりますが、重症の場合は点滴で投与します。服用期間は2週間から4週間で、まず確実に治ります。

 では、現代医学でモーツアルトの治療を試みてみます。まず6才時の初感染では正確に診断した後、ペニシリンを数週間服用してもらいましょう。腎炎を併発していないか、1週間に1度は検尿もします。10才頃にはすでにリウマチ性関節炎に冒されているようなので、この段階ならペニシリン大量投与、副腎皮質ステロイド剤が適用となります。また、すでに慢性腎炎を起こしているなら内服とともに食事指導、生活指導をして進行させないようにしなければなりません。晩年は腎不全、心不全がひどいようです。ペニシリンはもう意味がありません。利尿剤と強心剤を投与開始し、何と言っても人工透析が絶大な効果を発揮します。その前に腎臓移植を考慮すべきかもしれません。さあ、どうでしょうか、死の一ヶ月くらい前であれば助けられるかも知れません。それ以降になると衰弱がひどくてどうにもならないでしょう。
 ま、すべては夢物語です。ペニシリンが開発されるのはモーツアルトの死後150年もあとなのですから。 でも、晩年の朦朧とした状態、焦燥感の中でこそ、あのレクイエムが書けたのかも知れません。欲を言えばやはり完成してほしかった。

  ひとつタイムマシンで医師団を送り込んでモーツアルトを治療し、レクイエムを完成させる、というようなSF小説でも書いてみようかな。 



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